大和 1350 大きさ 5

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さらに、旋回時の船体の傾きも大和型9度、長門型10.5度、金剛型11.5度であり、安定性も優れていた。 旋回径(Tactical Diameter)の比較. このように日本海軍には大和型を次期主力戦艦として整備する思惑があり、四隻、あるいは五隻前後を建造・整備した後、(資料により四隻、五隻と前後する)最終的には改良発展型である超大和型戦艦までを計画していた[28]。, 日本側の大和型戦艦建造計画に対し、アメリカはノースカロライナ級戦艦2隻・サウスダコタ級戦艦4隻・アイオワ級戦艦4隻(1940年時点)の建造を開始しており、この動向および各艦の性能は日本側も把握していた[29]。, 大和型戦艦の艦型の母体となったのはYourkevitch船型である。艦型試験を繰り返しこれを軍令部の要求した戦艦向きに仕立て上げる事で大和型の艦体が計画された。竜骨下端から最上甲板舷側までの深さは18.965mで、10層の甲板が重なっている[30]。構造は、最上甲板、上甲板、中甲板、下甲板、最下甲板、第一船倉甲板、第二船倉甲板、船倉甲板、艦底(二重底)となっている。牧野茂(大和型設計者の一人)は「大和型戦艦は一見平甲板に見えるが、実質的には最上型重巡洋艦の形状といえなくもない。大和の中央切断面は最上と非常に似ている」と評した[31]。, 45口径46cm3連装砲塔を艦橋の前に2基、後ろに1基の計3基9門を搭載している。, 大和型最大の特徴と言える46cm砲は、海軍の要求や海外の情報から様々な案が検討された。, ワシントン海軍軍縮条約で日本戦艦の保有数が対米英比6割に抑えられたため、日本海軍は46cm砲搭載戦艦を建造し、質的対抗を図った。この46cm砲はそれまで最大の戦艦主砲だった41cm砲を凌駕する、世界最大の主砲であった。しかし、機密保持のため「九四式四〇センチ(サンチ)砲」と呼称した。戦中のアメリカは大和型の主砲口径について確証を得ることができず、長門型と同等の40cmを有力視しつつも、46cmの可能性も考慮していた(詳細は後述)。アメリカ側が詳しい口径を知るのは戦後の事であった。, 大和型戦艦が搭載した46cm45口径砲の最大射程は42,026mで、米国の同世代戦艦ノースカロライナ級、サウスダコタ級の搭載する40.6cm45口径砲 Mk.6の射程距離33,740m、40.6cm50口径砲 Mk.7を搭載したアイオワ級の射程距離38,720m、英国のキング・ジョージ5世級が搭載した35.6cm45口径砲の射程距離37,100mなどを上回っていた。ただし、後述するアウトレンジ射撃の項目に書かれている通り、水平線を越える射撃には航空機による観測が必要であった。46cm砲弾は初速780m/秒 (2,808km/h) で発射され、距離20,000m(仰角12.43度、落角16.31度)では522m/秒、30,000m(仰角23.12度、落角31.21度)では475m/秒(時速1,710km/h。音速の1.4倍)で着弾した。主砲を最大仰角45度で発砲した場合、弾丸の高度は距離25km付近で11,900mに達した。砲塔の旋回速度は毎秒2度(3度説もある)、砲の俯仰速度は毎秒10度(8度説もある)とされている。なお、凌波性向上のために、艦首に強いシアーを付けたため、1番砲塔は前方射撃(正面より左右へ各30度)では、仰角5度以下での発砲が行えなかった。砲身は200発の発射で交換することになっていたが、これは砲身そのものではなく、傷ついた内筒のみである[84]。, 46cm砲に対応した防御を備えた戦艦は他国に存在しないため、通常の戦闘距離で発射された砲弾が命中したなら、いかなる敵戦艦の防御をも貫通し得た。なお、日本海軍は46cm砲命中時の廃艦所要弾数について、大型巡洋艦で4ないし5発、戦艦で9 - 16発と考えていた。, 世界最強の艦載砲といわれる46cm砲だが、サマール沖海戦後の戦闘詳報によれば、「主砲の発射弾数は170余発に過ぎず(中略)平素1門あたり4ないし5発の教練射撃でも、故障が絶無なることは希なるを常とする」という状態であった[84]。同詳報はサマール沖海戦について「今回は海戦期間中、一度の小故障も起こさずに使用できた」と記載していることから、信頼性に問題があると認識されていた[85]。信濃の三番砲塔を調査した米軍は「日本独自のもので、英米戦艦より簡略な構造で機能する。作業の安全性と迅速性は作業員の訓練に依存し、全体的に安全に関する過剰な要素が設計に含まれ、非常に重い」「保守管理に大量の潤滑油が必要」と評価している[86]。しかし、戦艦クラスの大口径砲では諸外国でも同様に故障が発生している。たとえば、米アイオワ級戦艦においては、主砲弾の爆発事故が起きており多数の死傷者を出している。また、レイテ沖海戦における10月25日未明のスリガオ海峡海戦では、西村艦隊を迎撃した米第7艦隊の戦艦6隻に様々な故障が生じ、ウェストバージニアと カリフォルニアでは数基の砲塔が射撃不能になっている。イギリスにおいてもビスマルク追撃戦において、各戦艦が頻繁な主砲の故障に悩まされている。, 46cm主砲の装填速度は29.5 - 30.5秒とされている(下記)。つまり最大仰角45度で発砲した場合は、装填角度の3度から45度に砲身を上げるのに4.2秒、下ろすのにも4.2秒かかるため、次弾発射までに単純合計で37.9 - 38.9秒を要する。これが通説における発射速度40秒/発である。想定戦闘距離である30,000mであれば、砲身の俯仰にかかる時間が減るため、34 - 35秒程度(通説による発射速度1.8発/分である)、20,000mであれば32 - 33秒/発程度で発射可能と考えられる。しかし、遠距離射撃においては着弾観測における修正必要度が高いため、この速度で砲撃を行うわけではない。黛治夫によれば、30,000mで射撃すると、弾着するまで50秒かかる。初弾弾着を観測したのち修正を行い、第一射撃から約1分で第二射撃を行う。同様に砲弾の飛翔と観測・修正を繰り返し、3分後に第三射撃を行う。たとえ30 - 40秒/発で装填が完了していても、弾着の修正を行わないまま撃っては意味がないからである。黛は、大和型が第一命中弾を出すまでに必要な時間は5分と計算した[87]。, 大和型戦艦の装填速度29.5 - 30.5秒/発は、ビスマルク級戦艦の26秒/発(仰角4度。ただし、装填角度は2.5度)や米新型戦艦のマニュアルにある30秒/発と大差ない。とはいえ、米戦艦ノースカロライナは訓練により、マニュアルの半分である15秒/発を実戦で記録している(ナウル島への艦砲射撃のケース。だが人身事故の発生もあり、瞬発信管装着の際には特に「安全上の見地から、発射時間を遵守」の旨の指示が砲術長より出されてもいる。また機構的には長門型戦艦も16秒/発で装填することは可能)。こうしたことからも、発射速度は訓練度や戦況で左右される可能性のあるものであり、目安でしかない。, 現実に、実戦において各国戦艦はカタログ上最速速度ではなく、1分/発程度で砲撃を行っていることが多い。つまり、通説で語られる「米国のアイオワ級戦艦の射撃速度が30秒/発とされているので、40秒/発の大和型戦艦よりも手数で有利[88]」のように、単純に論じられるものではないが、大戦中にそれだけ使用できなかった事も事実である。下記に主砲のスペックを列記する。, 大和型戦艦を含む当時の日本戦艦・巡洋艦は、対艦用として九一式徹甲弾およびその改良型である一式徹甲弾を、対空用(および対地・対軽装甲艦船用)として零式通常弾および三式通常弾を搭載していた。46cm砲の場合、砲弾全長は九一式が約2m、三式弾が1.6m。砲弾重量は九一式および零式弾が1,460kg、三式弾が1,360kgであった。1門の搭載定数は当初100発、1砲塔300発が考えられたが、実際の設計では1門あたり120発+訓練用砲弾6発に変更された。, 九一式徹甲弾は水中弾道を考慮して開発された物だが、適切な砲戦距離が必要であるため[90]実戦で命中した例は少なかった。また弾体強度の不足から、砲弾径の9割以上の厚みがある表面硬化装甲に対し、撃角25度以上で命中した場合に破砕されてしまうという問題があり、大和型戦艦では被帽の取り付け方法を是正している。, 一式徹甲弾では、上記の被帽取り付け方法の改善に加え、弾頭部への染料充填を行ったとされている。能村によれば、大和は無色、武蔵は水色、長門は桃色であった[91]。このほかに弾体強度を強化したという説もあるが、定かではない。また染料の充填は、一式徹甲弾以前の砲弾でも広く行われていた。, 零式通常弾は榴弾、三式通常弾は榴散弾である。信管はいずれも調停秒時を0秒(瞬発)から55秒まで可変で設定可能な零式時限信管を使用した。炸裂時の危害半径は零式弾の方が大きく、どちらがより有効かについては当時の資料でも意見が分かれている。零式・三式通常弾とも、制式採用は1944年(昭和19年)であったが、1942年(昭和17年)中期以降から、限定的に実戦使用されていた。, 大和の主砲弾は、日本各地に数は少ないが保存されており、実物をみることも出来る。しかし靖国神社に展示されているものは模造品であり、実物と全く異なる外観のものが“大和の主砲弾”として展示されているので注意が必要である。[要出典]清水芳人(大和副砲長)が名古屋市護国神社に奉納したものは、実物とされる[92]。, 主砲管制射撃の要となる九八式方位盤照準装置(戦艦比叡に先行搭載し、性能を確認したもの)は、艦橋最上部の主砲射撃指揮所(トップと呼ばれた)に設置されている。敵との距離、敵の速度等を測定する測距儀はその下にあり、日本光學製で、艦載用としては世界最大の15.5mの基線長を持ち、一基で三つの距離データが得られ、その平均値がとられた。以上の機器から得られた、基準方位、彼我の距離、双方の速度に加えて、地球の自転速度、風速、気温、湿度、装填される火薬量などの数値を入力して、最終的な敵艦の未来位置に向ける主砲の仰角、方位の修正値を計算する射撃盤(九八式射撃盤改一、一種の機械式アナログコンピュータ)が、船体の装甲内、第一砲塔と第二砲塔のあいだにあった第一発令所に設置されていて、重さは4tあった[93]。九八式射撃盤は射程距離40,000m、敵艦速力40ノット、自艦速力35ノットまで対応していたが、地球の自転に対応する関係から、作戦海面を北緯55度、南緯20度以内(サハリンの北端からニューカレドニア島まで)に限定して調整されていた[94]。砲塔側の方位、仰角の受信は角度通信機(セルシン)で行われ、斉射の引き金は主砲射撃指揮所の方位盤にあった。, 九八式方位盤照準装置を設置した主砲射撃指揮所は、後部艦橋として予備が設置されている。ただし後部艦橋の測距儀の基線長は10mである。また、各砲塔にも15.5m測距儀が一基づつ、加えて潜望鏡式照準鏡が設置され、砲塔単独でも射撃ができたが、方位盤を用いた管制射撃より照準に手間がかかり、位置が低いので遠距離は測定できなかった。また、司令塔にも、前部主砲のみに対応した潜望鏡式の簡易な方位盤照準装置が設置されている。, 方位盤は防振架台の上にあったが精密機械だけに衝撃には弱く、レイテ沖海戦で武蔵の前檣楼トップの主砲指揮所の射撃盤は魚雷命中の衝撃により、戦闘初期に旋回不能になっている。レイテ沖で武蔵と運命を共にした艦長猪口敏平少将の遺書にも耐衝撃性を上げるよう改善する必要があると記されている。, 前方集中は装甲を集中配置できるため、重量的に有利と考えられた。しかし、実際に検討して見ると分散配置と大差なかった。現実に集中配置を採用したネルソン級戦艦では、前方に重量物が集中したことにより、極端に操縦性が悪化し、艦隊所属のタンカーであるネルソル、ロドルの名前で揶揄されるほどであった。また、ネルソン級では発砲の爆風により、後方射撃時に艦橋など上部構造物にダメージが及んだとの報告があり、主砲射界の問題点もあるため、集中配置は採用されなかった[101]。とはいえ、集中配置を採用したダンケルク級戦艦、リシュリュー級戦艦や利根型重巡洋艦では操艦性や爆風の問題は指摘されておらず、現実に採用された場合、どうなったのかは不明である。なお、連装砲塔は重量バランスに優れていたが、1門ごとの必要重量が3連装砲に劣っていたために採用されず、最終的に3連装3基9門となった。平賀譲は4連装砲塔と連装砲塔など、異種砲塔の組み合わせにこだわっていたという[102]。, 大和型の主砲は、散布界対策(3門同時に撃つと中央砲の弾が両側の弾から衝撃波を受けて弾道がぶれる)のため、九八式発砲遅延装置により左右2門発砲した後、一瞬おいて1門が撃つ機構となっている。この機構を最初に採用したのは20センチ連装砲を搭載する青葉型重巡洋艦であり、単装砲搭載の前級の古鷹型よりも散布界が大きくなった事から、砲弾の相互干渉の問題が発見された。ちなみに大和型戦艦の設計に参加した松本喜太郎は、砲支筒の強度について1砲塔あたり2門の同時発射に耐え得る強度であり、2門同時発射された際に反動力が砲塔機構で吸収された後、支筒に作用する力は3,468tと記載している。[103]しかしながら、大和型の主砲設計に参加した大谷豊吉によれば主砲9門同時発射時の反動力は8,000tであり[104]、すなわち2門同時発射時の反動力は約1,800t、3門同時発射時は約2,700tとなり、これらの反動力が砲塔機構で更に吸収されることを考えると、支筒強度上余裕を持って1砲塔あたり3門の同時発射が可能となる。, 口径という言葉には砲身の内径と砲身の長さ(口径長)の二つの意味があるが、ここではその両方について触れる。, 1918年、日本海軍は八八艦隊第十三号艦型に46cm砲8門を搭載すべく、秘匿名五年式三十六糎砲(19インチ砲/48cm砲)を製造し、試射に成功した[105]。この砲は瀬戸内海倉橋島、亀ヶ崎大砲試射場に残され、戦後米軍が撮影している[106]。このように大和型戦艦以前に46cm砲を搭載する計画は存在した[107]。, 1934年2月、海軍省は省内に「軍備制限委員会」を設置し、日本及び米英の砲製造能力を比較検討した[108][109]。委員会は、どの程度の口径、砲身長を新戦艦に採用すれば良いかを検討し、米英についても条約開けに18インチクラスの砲を搭載した戦艦を建造してくる可能性を考慮していた。制限委員会では藤本喜久雄造船少将が20インチ(内径50.8センチ。日本海軍はメートル法できりのいい数字にするので51センチ)砲3連装砲塔4基、速力30ノット、ディーゼル機関という大戦艦を提案した[108]。また、軍令部の一部にも20インチ砲採用を働きかける動きはあり、反対に量産性を考慮して16インチクラスにとどめる動きもあった[110]。問題は、砲身材料製造上必要な鋼塊(インゴット)の製造技術に難があったことである。当時日本で製造可能なインゴットの大きさは160トンであったが、「軍備制限委員会」が作成した比較表によれば、20インチ50口径砲だと240トンの鋼塊が必要となる。原によれば当時の世界記録でさえ、1931年に米国ミッドベール社が記録した200トンであり、艦政本部第一部としては20インチ砲の製造を極めて困難と判断したと言う。, 結果、総合的に勘案して46cm砲搭載に決まったが、パナマ運河の存在も影響を与えている(後述)。この間、過重装備の水雷艇が転覆した友鶴事件が発生して藤本造船少将が失脚し、平賀譲が軍艦設計に関与するようになる[111]。, 搭載砲を45口径砲(砲身の長さが内径の45倍)とするか50口径砲(同50倍)とするかでも計画時に議論がされている。一般的には、砲身を長くするほど砲弾の初速は大きくなり射程や貫通力が増すが重量増となる。, 原勝洋によれば、用兵側は50口径を希望したが、50口径の砲身製造のために問題となったのはやはりインゴットの製造技術であった。45口径では1門165トンの重量に対して50口径では200トンを超すと見積もられた。また、この重量増加は排水量の増加にも繋がることから45口径で充分と判断されたと言う[113]。, 戦艦の主砲発砲時のブラスト圧は、甲板上の人間や搭載航空機などに甚大な被害を与えるため、対策が実施された。大和型戦艦の46cm主砲は特に凄まじく、長門型戦艦の毎平方cmあたり3.5kg(砲口から15m離。2門斉射)に対し、毎平方cmあたり7.0kgである[117]。航空機破壊が0.5-0.8kg、人間が意識朦朧となるレベルが1.16だった[117]。実験では航空機が破壊されるほどで、試算の結果、主砲発射の衝撃波は甲板上のどこにいても[要出典]人体に致命傷を与える圧力と判明した[118]。大和型が艦載艇と艦載機を艦内に収容出来るように格納庫を配置したのはこの為である。計画時より爆風対策で艦載艇と航空機の格納庫を設けた例は、大和型だけである[119]。, 実際に武蔵の公試時に、モルモットを入れた籠を複数配置して主砲発射を行ったところ、爆風で半数以上の籠は跡形も無く吹き飛ばされており、残った籠の中のモルモットも爆圧により形を留めぬほどになっているなど、無事であったものはほとんどなかった。従って、主砲発射時には甲板上で体を露出している者(主に増設の機銃及び高角砲の要員)に対して主砲射撃指揮所から操作するブザーを鳴らすことで退避警告をしていた。1回目で甲板乗員は艦内に退避、2回目の長音の鳴り終わりと同時に発砲するという手段を執っていた。ただし、艦橋最上部防空指揮所の監視兵は退避しなかった。「武蔵」の射撃訓練に立ち会った左近允尚敏(海軍大尉、航海士)は、艦橋トップにいて主砲爆風を体感し、帽子を吹き飛ばされるところだったと回想している[120]。また公試運転で主砲爆風実験に立会った兵員は「檻に入れた犬・猿が全部死んだ。ただ主砲が右舷を向いて発砲した時に左舷甲板にいれば平気だった」と述べている[121]。トラック泊地での演習では、爆風に晒される兵は最初に耳に綿をつめ、その上に耳栓をして、さらに飛行帽子をすっぽりかぶって両耳を覆い、鉄兜をかぶって防御した[122]。, 米国は太平洋と大西洋に挟まれているが、軍艦建造の造船所は大西洋側に集中しており、建造された新造艦は通常はパナマ運河を通って太平洋側に出る。パナマ運河を通航するには艦幅を110フィート(約33m)以内に納めなければならなかった。日本海軍は米国がその制約下で46cm砲搭載艦を建造した場合、9門搭載艦なら最大排水量50,000トン、10門搭載艦なら60,000トンでそれぞれ速力は23ノット、40.6cm砲搭載艦なら50,000トンで33ノットになると試算し、砲力と速力の総合で大和型が優位に立てると判断した[126]。大和型に対応する十分な攻防走能力を与えた場合、運河は通行出来なくなると日本側は想定した。有力な艦船が運河を通行できない場合米海軍は、大西洋からの回航に南米回りの航路を使わざるを得ず、時間的な負荷がかかる[127]。これは日本側に有利に働くと考えられた[注 10], なお、アイオワ級戦艦計画時にも基準排水量45,494トン、全長243.8m、全幅32.9m、45.7cm47口径砲9門、速力27.5ノットの試案が存在し、これが実現した場合は日本側の予測を上回る結果になったはずである。もっとも全幅を32.9mに抑えているため、弾薬庫の必要幅の関係から、特に水中防御については大和型にかなり劣るものと考えられる(要目によれば垂直/水平装甲も制限のない大和型が優位)。 同時期、1937年(昭和12年)にロンドン海軍軍縮条約の期限が切れ、それに向けてイギリス・アメリカ・フランス・イタリアなどの列強が新たな大型戦艦を建造することが予想された[9]。ヨーロッパでは既に新型戦艦が登場しており、ドイツはポケット戦艦(ドイッチュラント級装甲艦)を、フランスはダンケルク級戦艦を投入している[10]。 接地線の太さについて教えてください。 内線規定1350表を見たのですがいまいち理解できません。今 次のような幹線があります。l1 300at cvt250sq から 分岐で l2幹線 100at cvt60sq と l3幹線 100at cvt60sqがあります。 また戦艦の主砲に関わった者ならば46cm砲であることを推測することは容易であり、「長門」の41cm砲伝令員だった近江(連合艦隊司令長官付従兵長)は「大和」の砲塔内部を見学して46cm砲の巨大さに圧倒されている[266]。また千早正隆のように、機密を知る艤装員や艦長が転勤して他の部隊に行くという事例も多かった。, 艦名については、艤装員付として軽巡洋艦鹿島より転属した三等機関兵曹の履歴表に「大和」と捺印されていた。また無線通信では「大和、武蔵」の艦名が公然と呼称されており、昭和天皇が「武蔵」に乗艦した際にも『御召艦武蔵』と日本海軍全体に通知されている。水雷戦隊はおろか駆逐艦の戦闘詳報にも「大和、武蔵」の艦名が記載されている。, 淵田美津雄(真珠湾攻撃時赤城飛行隊長)は海軍大学校在籍中の1936年、「丸四計画」を知って大西瀧治郎航空本部教育部長と共に反対論を唱えている[267]。同校の学生が「大和、武蔵という新型戦艦が配属された」という噂を聞き、教官に確かめたというエピソードもある[要出典]。海軍兵学校を卒業後、航空搭乗員の訓練を受けていた 豊田穣は、練習機に搭乗中、教官が機上から「大和」を紹介してくれたと述べている[268]。, また横須賀海軍砲術学校で教育された第一期特年兵が戦艦「武蔵」に配属になる際、「武蔵乗組みを命ず」と面前で紹介され、特年兵同期生達がどよめいたというエピソードが残っている[269]。砲術学校志望者が、第一から第三希望まで全て「大和」で統一した例もある[270]。この横須賀海軍砲術学校では、1943年に源田実が来て高等科生らに航空講義をした際、「万里の長城」「ピラミッド」「大和、武蔵」は世界の笑い物だと発言し、教頭だった黛治夫が源田に詰め寄る一幕もあった[271]。源田は大和型をスクラップにして空母にすることを主張したが、大和型から大型空母に改造された信濃は、横須賀から呉への航海途中に米潜水艦の雷撃をうけ、完成から20日で沈んだ。, 呉では、公用使として上陸した兵(坪井)がポケットに手をいれて本屋にいたところ、巡邏隊に連行されてしまった。日本海軍においてズボンのポケットに手をいれることは厳禁だった。詰所で「大和所属」と名乗ったところ、巡邏隊は「一号艦か」と突然態度を変え、簡単な注意だけで解放された[272]。1944年12月の東南海地震では、大地震に遭遇して帰艦時刻に遅れそうになった数名が海軍無線局で「大和」乗組員であることを名乗り、艦に連絡を取っている[273]。同月、有賀幸作大佐が大和艦長に任命された時、浜名海兵団にいた長男に対し本来「ウ五五六」(大和の秘匿番号)とすべきところ「大和艦長 有賀幸作」と艦名を書いた手紙を送っている[274]。ただし、大和艦名が書かれたのは最初の一通だけだった。下級将校も艦名を知っていたと思われ、大和配属が決定した少尉が妻に「大和配属になった」と打ち明けている[275]。, またトラック泊地では内火艇が迎えに来る際、内火艇の水兵が大声で「武蔵乗組みの者はいないか!」と怒鳴っていたという[276]。ここでは「大和農園」や「武蔵農園」があり、下士官兵がカボチャやキュウリといった野菜を作っていた[277]。, 社会一般では、1942年(昭和17年)12月8日には艦形・艦名・要目等は一切明らかにされなかったものの「新鋭艦」が既に数隻存在するという海軍関係者の発言が報道された。これは当時の雑誌・書籍類からも確認できるが、実際に紙面を飾ったのは利根型重巡洋艦「筑摩」である[278]。また、大戦末期になると大部分が噂話程度のものであったが「長門や陸奥より大きな軍艦」が存在するという情報が少なからず広まっていたようである。山田風太郎が記した1943年(昭和18年)2月3日の日記によれば、山田は海軍少尉の友人との会話で『日本の新戦艦中には「大和」「武蔵」という八万トン級の凄いものがあること』を教えられている[279]。大和沈没時には、呉でも「大和沈没」の噂が流れた[280]。, 対する米軍は大和型戦艦の名称を把握しており、大和沈没時、捕虜に制作させた『米軍の猛攻を受けた「大和」は航空機1機の援護もなく沈没し、姉妹艦「武蔵」もフィリピン海戦で沈没した』という内容の宣伝ビラを投下している[281]。, これほどまでに徹底して大和型戦艦の機密を守ろうとした理由は、大和型戦艦の主砲が18インチ砲であると露見した場合、米国はただちに18インチ砲戦艦を建造し、「質」の面でも日本海軍と同等になると推測されたからである[282]。牧野茂は、日米戦艦の甲鉄防御を比較した際、「設計で見逃されたところも少なくないと思われる。基本計画が軍機扱いの密室的環境で実施されたところに原因の一端がないとはいえない。機密扱いは、それによって得る利益よりも、そのために失われるところの方が大きいことを銘記すべきである」と批判している[283][284]。, この節では主に、平間洋一「大和を巡る米海軍の情報活動」(『戦艦大和』講談社選書メチエ)を参考に記述する。大和に対しての対日情報活動を米側から調査した成果はジャクソンビル大学主任教授で博士のクラークと日米関係史を専攻するクラーク夫人が行った研究が元になっている[285]。, 日本海軍が1937年に条約を脱退してから後、艦艇建造に関する機密は極めて厳重に保持された。米国では1936年の時点において、日本の新型戦艦建造について16インチ砲搭載43,000 - 46,000トン級超弩級戦艦3隻を建造しているという風聞が流れ始めていた[286]。米海軍情報部(ONI)なども対日情報の収集に尽力したが、そうした報告は常に米海軍では過小評価された[287]。情報収集は1941年に専門誌に載った予想では45,000トンかそれ以上の排水量を持ち、16インチ (40.6cm) 砲ないし18インチ (45.7cm) 砲9門を搭載した、速力30ノット程度の「日進型戦艦」が最大5隻建造されていると記述されていた[288]。この結果、[要出典]第二次ロンドン条約では、戦艦の基準排水量制限が拡大されて、最大45,000トンとなった[289]。日本外務省は、アメリカが51,000トンまで容認するとの観測を伝えている[290]。この制限も第二次大戦の開戦により条約が無意味となった結果、無視され、未成のモンタナ級戦艦では60,000トンを越える設計となった。米国は空母についても、速力や搭載数を過少に見積もり、その代わり保有数を実際より多い9ないし10隻(建造中1ないし2隻)と判断していたり、実在しない18,000トン級の「快速大型巡洋艦」3隻(12インチ砲8 - 9門、速力40ノット)の建造情報を掴んだり[291]、同じく実在しない「秩父型大型巡洋艦」を秘かに建造している事に対抗する必要があるという判断から、アラスカ級大型巡洋艦を建造しているなど、機密保持はかなりの効果を発揮していた。, 当然ながら、日本は戦艦建造に関する公式発表を曖昧なものとした。1937年5月に、米内光政海軍大臣は「日本は他国に脅威を与える軍備を企図しておらず、16インチ以上の主砲を搭載する大型艦の建造などというのは、根拠を欠く憶測」と発言している。この発言を受け、当時の海軍武官ビーミス米海軍大佐は「現存している主力艦を大きく越える主力艦を建造したり、現在使用しているものより大口径砲を搭載することは企図していないという見方が強まっている」と報告した[292]。ビーミスはアタッシェと呼ばれる日本駐在の各国海軍武官の集まりにも参加しており、そこで交換した情報も報告されている。それによれば、英国武官情報として、日本が16インチ砲を搭載した45,000トン級戦艦を、横須賀と呉で1隻ずつ建造していると考えていた。さらに佐世保で同型艦の建造が進められ、最終的には4番艦も建造すると判断していた[293]。, 機密保持は同盟国である独伊相手にも徹底していた。ドイツ側の駐日武官は日本がドイツ側の海軍工廠視察要求を拒否したため、ドイツも日本の海軍武官の視察を拒否すべきであると、本国に要請していた。, こうした状況から、日本の国家予算から建造艦艇を推測する試みも行われた。米国は1937年の第三次海軍軍備補充計画は戦艦4隻の建造に足るものと推算したが、この数字には1933年から1937年にかけての労働賃金や物価の上昇が含まれておらず、実質的には予想不可能と判断していた。1940年4月、ハットン少佐は情報を整理し、16インチ砲を搭載した戦艦8隻を日本が建造中であると報告した。しかし、米海軍大学校はこの情報を重視せず、1940年6月の机上演習でも、16インチ砲9門を搭載した日本海軍新型戦艦4隻が配備されているという想定で行われた[294]。1941年11月26日付「太平洋艦隊情報文書第1-42号」の日本海軍戦艦完成という項目には、紀伊半島沖で識別された新型戦艦「ヤマト」という文章が残っている[295]。, 太平洋戦争が勃発すると、捕虜の尋問などで大和型戦艦に対する情報収集が行われた。その一方で、日本が大和型の主砲呼称を40センチ砲としていたこともあり、1942年10月時点でも米海軍情報部では日本の新型戦艦は16インチ砲搭載艦と判断していた[296]。, 日本は1943年7月16日に、ヒトラー総統の特別要請に応えて、ドイツ海軍駐日武官ヴェネッカー中将に対して大和の視察を許可したが、機密保持の観点から視察は表面的で、限られた区画を1時間程度しか行わせなかった。そして要目も基準排水量42,000トン、40cm砲9門、25ノット[注 15]と伝えた上で、本当のデータをヒトラー総統が知りたければ、連絡武官を派遣して、直接口頭で伝えるという姿勢を取った。実際、東京からベルリンに送られたこうした大和型戦艦に関する電報は米国に傍受され、米側が大和を42,000トン、16インチ砲戦艦と判断する強い判断材料となった[297]。, しかし、1944年2月4日、B-24爆撃機2機がトラック諸島上空で撮影した大和型戦艦の写真解析は、米海軍情報部に波紋をもたらした。写真に写った新型戦艦は、基準排水量60,000トン以上、全長289.5m、全幅33.5m、18インチ砲9門を主砲に持ち、8インチと5インチの副砲を持つと判断されたのである。だが、1944年4月に押収した日本海軍の文章でも、大和と武蔵の要目はドイツ側報告と同じだったため、1944年9月の『米海軍情報週報』でも大和型の要目は過小評価されたままだった。最終的に米海軍は、大和と武蔵を撃沈した後でも、42,000トン、16インチ砲9門、28ノット程度と考えていた[298]。一方で日本海軍が18インチ砲の試験を行っているとの情報を1942年頃には得ていたため、主砲口径について信用できる情報を持っていなかった[299]。, 沖縄特攻時に、大和迎撃を命じられた米第54機動部隊では、4月7日早朝から参謀会議が行われ「大和が18インチ砲なら45,000ヤード (41,148m) の射程を持つが、デイヨー艦隊は16インチ砲戦艦でも42,000ヤード (38,404m) に過ぎず(同艦隊に存在したコロラド級戦艦の16インチ45口径砲は射程32,000mであり、米戦艦で射程が42,000ヤードに達するのはアイオワ級戦艦のみ。数値は誤記の可能性もある)、アウトレンジ射撃を受ける危険性がある」と指摘された。また旧式戦艦より高速の大和が突破に成功した場合、輸送船団が攻撃を受ける可能性もあったが、明確な解決策は見いだされなかったとされている。, 終戦直後、米海軍は対日技術調査団(U.S.Navy Technical Mission to Japan)を日本に送り、半年あまりに渡って技術調査を実施した。終戦により一切の機密が解除されたため、建造・運用に関わった海軍技術者たちは調査団の質問に正確に回答するよう務めた。ただし質問を受けなかった事項に対しては説明はしなかった。調査団は幾つものレポートを発表したが、福井は「その中にもじつは、誤ったことが決して少なくない」「とうじ米国が建造用意中であった代表的巨艦モンタナ型について、先方の設計主任官と、とうじの方針やら、プラクティス、また、用兵部内からの要求とか戦訓、そのようなものをふくんで、たがいにディスカッションをしないと十分な効果はないであろう」と述べている[300], 武蔵に続く第四次海軍軍備補充計画で110号艦、111号艦建造が決定した。110号・111号艦は、大和で不十分とされた連合艦隊旗艦設備を充実させ、過大と判断された舷側装甲厚・甲板装甲厚・主砲バーベット装甲厚を減じ、艦底を三重底化(一部区画は二重底のまま装甲を強化)して水中防御を強化しているため、準同型艦として扱われる。スクリューの直径も異なり、大和と武蔵が5mであるのに対して信濃は5.1mで建造されている[301]。3番艦信濃以降の新戦艦は高角砲には長10cm高角砲を搭載する予定だったとする説が多い。, 110号艦は太平洋戦争開戦と共に戦艦としての完成を断念したが、船体(船殼)はかなり完成していたためにドックを空けるための船体建造は進められ、のちに計画変更されて航空母艦信濃として竣工した。もう一方の111号艦は工事が進捗していなかったため、開戦と共に建造中止・解体されている。空母として竣工した信濃には、砲の生産能力や予算面から回航時に八九式12.7cm連装高角砲を搭載したという説と、沈没時には高角砲は搭載されていなかったとの説もあり、詳細は不明である。, また、第五次海軍軍備補充計画では、後継艦に水中防御などを改良した797号艦(改大和型戦艦)や主砲を51cm連装砲塔に変更し、各種防御を51cm砲対応に強化させた発展型の798号艦、799号艦(超大和型戦艦)も計画されたが、いずれも起工には至っていない。, なお、111号艦は紀伊もしくは尾張という艦名になる予定だったと言われている。ただし、紀伊は空母信濃となった110号艦の予定名称であり、何らかの事情で変更されたという説もある。また、尾張は「終わり」を連想させ、縁起が悪いので使われないという説もある[要出典]が、八八艦隊計画で未建造となった紀伊型戦艦には「紀伊」、「尾張」の艦名が使われていた[302]。「甲斐」や「讃岐」という見解もあるが、確証はない[303]。, 太平洋戦争時の戦闘は航空機主体の戦術に移っており、大和と武蔵が敵戦艦と水上戦を行う機会はなかった。また米軍が大和型戦艦と同世代の戦艦10隻(ノースカロライナ級2隻、サウスダコタ級4隻、アイオワ級4隻)を様々な任務に投入したのに対し、日本海軍そのものが、大和型戦艦2隻の利用に消極的だった。イギリス軍事評論家オスカー・パークスは「大和、武蔵」の2艦ともに、同じような強さの相手に遭遇しなかったことは残念であった」と述べている[304]。, 大和の初陣はミッドウェー海戦であるが、これも連合艦隊旗艦として機動部隊の後方を進撃しただけだった。, 続くガダルカナル島をめぐるソロモン諸島の戦いにおいて、アメリカ軍はノースカロライナ級戦艦やサウスダコタ級戦艦を始めとするありとあらゆる軍艦を投入したのに比べ、海軍は高速ではあるが旧式の金剛型戦艦のみを投入し、新鋭戦艦たる大和型は温存された。1942年当時の日本は資源輸送に使用すべきタンカーまでも海軍作戦に使用したが、ミッドウェー海戦での浪費などもあって、大和型戦艦を動かす燃料までは確保できなかった[要出典]。大和と武蔵は、激戦が続くソロモン海に出撃できなかったため、他艦の乗組員からは「大和ホテル」「武蔵御殿」と揶揄された。1942年9月18日には「大和」「陸奥」が前進部隊の補給艦「健洋丸」にそれぞれ4,500トン、さらに2隻に燃料補給を行った。同11月9日にも「大和」「陸奥」は出動部隊に米麦を提供している。, 大和型戦艦による実戦での主砲砲撃が初めておこなわれたのはマリアナ沖海戦での対空砲撃であり、続くレイテ沖海戦でも対空防御のための砲撃をおこなった。レイテ沖海戦で武蔵は撃沈されたものの、航空魚雷20発以上、爆弾18発以上と言われる命中弾を受けても5時間以上浮いていた堅固な防御力は特筆すべきものがあるが、被雷の振動で艦橋トップの主砲射撃方位盤が故障し、主要防御区画内に浸水が発生するなど、弱点といわれた部分を次々と露呈する戦闘ともなった。その後発生したサマール沖海戦で、大和は米護衛空母部隊に対して32kmから遠距離砲撃を加えた。これが大和型戦艦が主砲を敵水上艦艇に発砲した最初で最後の戦いであったが成果を上げることはできなかった。, なお、空母に改装され、突貫工事の末1944年11月に竣工した3番艦信濃も、横須賀から呉への回送のための航海途中に潮岬沖で米潜水艦の雷撃をうけて沈没した。詳細は信濃を参照のこと。, 残された大和も、最後には天一号作戦に投入され撃沈された。武蔵が沈むまで10時間かかったのに比べ、大和が2時間の戦闘で沈んだのは、日本軍の戦力が減退し護衛艦隊が薄弱で攻撃目標艦を絞りやすかったことや、当日の天候が悪く、大和から米軍機の視認が難しかったことなどによる。さらにレイテ沖海戦時の米軍は爆撃機と雷撃機が交互に攻撃していたのに対し、沖縄特攻時には戦闘機、爆撃機、雷撃機が複数方向から同時に攻撃するため、対応が難しくなっていた[305]。また米軍が武蔵の戦訓から片舷に雷撃を集中させたという論があるが、米軍にその意図は見られない[306]。武蔵が受けた20本以上の魚雷のうち、右舷に命中したのは4 - 5発のみとする証言もある[307]。, 当時の日本海軍の造船官、平賀譲と藤本喜久雄の間には確執があり、大和型戦艦の設計過程にも大きく影響している[308]。この中で、平賀の意見が強まったことで大和の性能を不当に低く設定してしまったという批判が遠藤昭などからなされている[74]。藤本の技術的革新主義が、友鶴事件、第四艦隊事件の他、溶接技術の未熟(機関製作にも溶接は重要な要素技術である)、高圧蒸気の扱いや大トルクの減速歯車技術等の未熟、ディーゼルの失敗などで否定されてしまい、造船官の権威を失墜させた以上、設計が平賀的(保守的)なものに回帰したことは大和型にはプラスに働いたという評価もある[注 17]。平賀は大和型の計画と建造と平行して進んでいた「臨時艦艇性能改善調査委員会」の席上、西島亮二に対しても「艦体が折れたのは、電気溶接を無闇に使用したからだ」などと批判し[310]、1936年1月には「船体構造電気溶接使用指針」を発行、この文書は使用箇所を構造強度の根幹に関わる部分に使用しないよう指定する内容であった。溶接推進派の造船官の一人、福田烈に対しては技術が進歩すれば溶接を使っても良い旨語っており、また、福田との議論の中で「残留応力の面から不当の判決を受けた」「終いには溶接の性質をよく理解され、溶接に対する考え方が変わられた」といった平賀自身の考え方の推移も証言されている[311]。, また、戦艦設計は平賀一人の手で行う物ではなく、多くの技術者の手を経て膨大なマンパワーを必要とするため、平賀が細部まで設計を行ったわけでは無い。牧野茂は大和型戦艦の船体が藤本の設計した最上型重巡洋艦と似ていたことを指摘した上で、「最上の計画主任の魂が、自ら大和に宿ったようだ」と述べている[31]。, 機密保持に熱心だった反面、技術情報の収集には当事者が問題を感じている。牧野茂はH.E.Rossellの「Historical Transaction 1893-1943 "Type of Naval Ships"(1945 SNAME)を戦後40年以上経過してから再読した際、「造船設計に関してはいささか自負慢心が強く、諸外国の技術情報蒐集に真剣身を欠いたと感じる」と述懐している[312]。, 大和型に搭載された46cm砲(18.1インチ砲)は「世界最大の艦載砲」と言われ、ギネスブックにも認定されている[313]。, 同クラスの砲を装備した例としては35口径45.7cm砲(18インチ砲)2基を搭載したイギリスの大型軽巡洋艦フューリアスがある。, NHKの『その時歴史が動いた』にて、46センチ砲を搭載している大和は「敵の砲弾の届かないところから一方的に攻撃できることになります」という内容を語っている[314], 大和型戦艦はパナマ運河の制限により40センチ砲搭載のアメリカ戦艦をアウトレンジする構想のもとで計画された。[315][316], 一九三九年六月に策定された「聯合艦隊戦策」では、アウトレンジ戦法を「敵の射撃開始に先立ち一大打撃を加え」「勝敗の帰趨を決するは、帝国海軍にとり戦勝の一大要訣である。」[317]と同戦法を重視している。しかし直視できないアウトレンジ射撃では着弾位置の確認と補正のために飛行機観測が必要なので、制空権が無く観測機を飛ばせない状態では実戦上の意味はまったくない。, 長門型戦艦は三万二千メートルの射撃を行い12パーセントの命中率を得て、海軍は同戦法に強い自信を持っていた。[318] 他の戦艦も高い命中率を発揮した。, これにより「日本海軍は、砲撃に大きな自信を抱き艦隊同士の海戦ともなれば、アメリカ海軍の戦艦の砲が火を吐かぬ前に、その長大射程を持つ「大和」「武蔵」の46センチ主砲で、アメリカ艦隊を全滅させ得るという確信を抱くに至った」[319]。また実弾射撃演習においても大和武蔵は海軍の想定通りの命中率を発揮していた。[320] アウトレンジ後は決戦距離(40-36センチ砲で20-25キロメートル、20センチ砲は17キロ内外)[321]にて砲戦を続ける計画。, 1944年6月2日に大和・武蔵が35000mで実施した一斉打ち方で砲弾の散布界が800m - 1000mと大きく問題となったが訓練により1944年(昭和19年)9月には35 - 36kmにおいて全砲による斉発でも散布界300m(遠近)に縮小し[322]、9月27日の砲術研究会でも「散布界著しく縮小」と報告されている[323]。, ただし散布界が小さければ単純に命中率があがるというものでもない。駆逐艦などの小型高速艦艇が遠距離において絶えず変針しながら移動する場合、的艦の動きを予想し発射しても着弾に時間を要することから命中弾を得ることが非常に難しかったためである。, サマール沖海戦において大和は6時59分に米護衛空母群に対し距離32000mで射撃を開始。大和は数回の斉射を行ったが煙幕とスコールにより目標を見失い射撃を一時中断する。その後、電探射撃を試みたものの効果は不明。, 米側資料によると、日本戦艦の砲撃は6時59分から約6分続き、空母は数回夾叉(敵艦を挟んで砲弾が落下した状態で命中弾が出る確率が上がる)を受け衝撃で艦のコントロールを失うなどした。"その射撃は砲術士官に望みうる最高のものであった"。"砲撃の量と正確さはしだいに増していた。この時には、わが艦隊のどの艦も、敵の大口径砲の砲火から後五分も生き残ることはできまいと思えた"スプラグー少将[324], しかし米駆逐艦の煙幕やスコールで視界不良となると日本軍の砲撃精度は急速に低下した。そのため「敵の水上射撃は我々の海軍の水準より著しく劣る」「斉射の距離測定は正確だったが偏差測定が正確ではなかった。」と報告されている[325]。 大和は観測機を2機発進させたが米戦闘機に追い払われてしまった。, アメリカ戦史研究家のRobert Lundgrenの研究成果では大和個別での戦果は以下の通りであると述べている。, 「砲戦用電探精度は大型艦船に対し距離精度は良好なるも方向精度不安定なるため電測間接射撃は実施せざるを建前と考え居たるも、今回の如く戦勢上実施を必要とする場合あり」, 「圧倒的優勢を得な乍ら之を殲滅するまでに戦果を徹底し得ざる原因を探求する時、目下帝国海軍の水上砲戦術能力向上第一義的喫緊施策は正に電測射撃能力向上に帰すべきを痛感す。」, 「即ち、我が術力(電探出現前の砲撃)の方式より看れば極度に向上し艦隊に於いて強き自信を有するにもかかわらず」「遂に存分の戦果を挙げなかったのは、一に我が電測能力貧弱の虚に乗じられたものである」『比島沖海戦並びに其の前後に於ける砲戦戦訓速報』[327], レイテ沖海戦において、武蔵は第一次空襲の際に主砲射撃方位盤が故障し、主砲射撃指揮所からの統一射撃が不可能になり、第二次空襲以降では各砲塔による各個照準及び射撃となったと言われている。ただし、武蔵の主砲第一発令所の九七式射撃盤を担当した布田昇の証言によると「まず第一波の攻撃で命中した魚雷のため、前部方位盤の旋回部分が歪んでしまい、旋回不能となった。直ちに後部方位盤に切り替え、戦闘を続行」ともあり[いつ?

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